
適切な幼児教育は後の人間形成において大変重要であると考えていますが注意していただきたいことがあります。
幼児教育は完璧な育児や教育を推奨するものではないということです。
・愛情が第一を忘れない
・他の子どもと比較をしない
・完璧主義にならない
・結果を期待しすぎない
・ゆったりとした心を持つ
子どもへの過剰な期待は親子共に大きなストレスになる危険性あります。
ゆったりと構え、少しくらい上手くいかなくても「まぁ、いっか。」に考えられることが幼児教育を続けられるポイントになります。
「父親の役割」について はやし浩司先生の子育て随筆
ある雑誌を読んでいたら、ある評論家が、父親の役割について、書いていた。かなりトンチンカンなことを書いていた。
……と批評することは、簡単なこと。どうトンチンカンかということについては、ここには書けない。しかしかなりトンチンカンだった。「へえ?」と、私は、へんに感心してしまった。その評論家は、「今こそ、父親の威厳が大切」というようなことを説いていた。
たしかにそういう面もある。が、そうした対症療法的な「父親論」では、問題の本質を、見失ってしまうのではないだろうか。もちろん、実際の子育てでは、役にたたない。「威厳とは何か」「どうすればその威厳を保てるのか」「そもそも威厳のない父親に、威厳をもてといっても無理ではないのか」と、そこまで論じて、はじめて役にたつ。
とくに私など、まさに威厳のない父親の代表格のようなものだから、そう言われると、ハタと困ってしまう。本当に、困ってしまう。私など、息子たちの前では、いつもヘラヘラとしている。いつもバカにされている。
そんなとき、別の読者から、母子家庭の問題点についての質問があった。それで、ここでは、父親の役割について考えてみる。
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【父親の役割】
●母子関係の是正
母子関係は、絶対的なものである。それは母親が、妊娠、出産、授乳(育児)という、子どもの「命」にかかわる部分を、分担するためである。
同じ親でも、母親と父親は、そういう意味においても、決して平等ではない。はっきり言えば、父親がいなくても、子どもは生まれ、育つ。
が、ここでいくつかの問題が生まれる。
その第一は、精神の発育には、父親の存在が、不可欠であるということ。それには、つぎの二つの意味が含まれる。
(1)父親像の移植
(2)母子関係の是正
人間は、社会的な動物である。そしてその「社会」は、「家族」という、無数の共同体が集合して、成りたっている。世界のあちこちには、大家族制度や、かつてのヒッピー族が経験した、集団家族制度のような家族形態をとっているところもある。
しかしこの日本では、一人の父親と、一人の母親が結婚して、家族を構成する。それが家族の基本であると同時に、子育ての基本となっている。(だからといって、そうであるべきと言っているのではない。誤解のないように!)
そうした家族形態の中における、父親の役割を、子どもに教える。「父親というのは、こういうもの」「父親というのは、こうあるべき」と。これが父親像の移植である。子どもは、父親に育てられたという経験があってはじめて、その父親像を、自分のものとすることができる。
しかしこれに加えて、もう一つ、重要な役割がある。それが、(2)の母子関係の是正である。
このことは、離婚家庭や、父親不在家庭の子どもをみれば、わかる。
父親像がない状態で育った子どもは、母子関係がどうしてもその分、濃密になり、母親の影響を大きく受けやすい。そのためマザーコンプレックスをもちやすいことは、すでにあちこちで指摘されているとおりである。
子どもは、その成長過程において、母子関係から離脱し、社会性を身につける。これを「個人化」という。その個人化が、遅れる。あるいは未発達なまま、おとなになる。三〇歳を過ぎても、四〇歳を過ぎても、さらに五〇歳をすぎても、母親なしでは、生きられない状態を、自ら、つくりだす。
六〇歳をすぎても、「お母さん」「お母さん」と、甘えている男性など、いくらでもいる。
しかしこうした依存性は、決して、一方的なものではない。
ふつう子どもが、依存性をもつと、子どもの側だけが問題になる。しかし実際には、子どもの依存性を許す、甘い環境が、その子どもの周辺にあると考える。もっとはっきり言えば、母親自身が、依存性が強いことが多い。
だから母親自身が、子どもの依存性を見落としてしまう。あるいは子どもに、自分がもっている依存性と同じものを、もたせてしまう。
たとえば依存性の強い母親は、親にベタネタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子、としてしまう。反対に、親に反抗したり、自立心が旺盛な子どもを、「親不孝者」と、排斥してしまう。
こうしてベタベタに甘い、母子関係が、生まれる。
そのベタベタになりがちな母子関係を制限し、修復するのが、父親の役目ということになる。
具体的には、(1)行動に制限を教える。(2)社会的人間としての、父親の役割を教える。
たとえば溺愛ママと呼ばれる母親がいる。
このタイプの母親は、母親と子どもの間にカベがない。だから子どもが何かの不祥事を起こしたりすると、自らが責任をかぶることにより、子どもの責任をあいまいにしてしまう。
子ども(中3男子)が、万引き事件を引き起こして補導されたとき、一夜にして、あちこちをかけずりまわり、事件そのものをもみ消してしまった母親がいた。
つまりそういうことをしながら、子どもの精神的な発育を、母親自身が、むしろ、はばんでしまう。
こうした母親の行動にブレーキをかけるのが、父親の役目ということになる。もともと父子関係は、「精液一しずく」の関係にすぎない。しかしこうした父親のもちうる客観性こそが、父親像の特徴ということにもなる。
つぎに(2)社会的人間としての、父親の役割だが、これは、現代の社会構造と、深く結びついている。たとえば少し前まで、この日本では、「男は仕事」という言葉が、よく使われた。「男が仕事をし、女が家庭を守る」と。(だからといって、こうした考え方を、私が肯定しているわけではない。誤解のないように!)
こうした「男」と「女」のちがいは、さまざまな形で、社会の中に組みこまれている。そのちがいを、教えていくのも、実は、父親の役割ということになる。
父親は、決して、母親にかわることはできない。またかわる必要もない。母親には母親の、そして父親には父親の限界がある。その限界をたがいに、補いあうのが、父親の役目であり、母親の役目ということになる。
その役割を混乱させると、子育てそのものが、混乱する。
よくあるケースは、(1)父親の母親化。(2)母親の父親化。(3)それに父親の不在(疑似母子家庭)である。こういう家庭では、子育てそのものが、混乱しやすい。
父親の母親化というのは、父親自身が、女性化していることをいう。子どもを、溺愛ママよろしく、息子や娘を溺愛する父親は、決して珍しくない。
つぎに母親の父親化も、ある。このばあい、その影響は、子どもに強く現れる。本来なら、母子関係ではぐくまれねばならない、基本的な信頼関係(絶対的なさらけ出しと、絶対的な受け入れ)が、結べなくなる。その結果、子どもの情緒、精神の発育に、深刻かつ重大な影響を与える。
一般的に言えば、母親が父親化すれば、子どもは、愛情飢餓の状態になり、心の開けない子どもになる。
さらに父親の職業などで、疑似母子家庭と呼ばれるようなケースになることもある。夫の長期にわたる、単身赴任が、その一例である。
だからといって、母子家庭が悪いと言っているのではない。ただこうした問題があるというのは、事実であり、そういう事実があるということを知るだけでも、母親は、自分の子育てを、軌道修正できる。母子家庭が本来的にもつ問題を、克服することができる。
まずいのは、こうした問題を知ることもなく、母子関係だけに溺れてしまうケースである。この原稿は、そういう目的のために書いたのであって、決して、母子家庭には問題があると書いたのではない。どうか、誤解のないようにしてほしい。
(はやし浩司 父親役割 母子家庭 問題 エディプス コンプレックス)
【追記】
母子家庭でなくても、母親が、日常的に父親を否定したり、バカにしたりすると、ここでいう父親像のない子どもになることがある。
このタイプの子どもは、言動に節制がなくなったり、常識ハズレになったりしやすい。あるいはマザコンになりやすい。
マザコンタイプの子どもの特徴は、自分のマザコン性を正当化するために、ことさら親(とくに母親)を、美化するところにある。「私の母親は、偉大でした」「世のカサになれと、教えてくれました」と。そして親を批判したりする人物がいると、それに猛烈に反発したりする。
こうしたマザコン性から子どもを救い出し、父親像をインプットしていくのが、実は、父親の役目ということになる。これを心理学の世界では、「個人化」という。もともと個人化というのは、家族どうしの依存性から脱却することを言う。つまりわかりやすく言えば、「自立化」のこと。
マザコンタイプの人は、その個人化が遅れる。ベタベタとよりそう関係を、かえって美化することもある。親は、「親孝行のいい息子」と思いこみ、一方、子どもは、「やさしく、すばらしい親」と思いこむ。
簡単に言えば、父親の役目は、子どもを母親から切り離し、子どもを自立させていくこと。
もちろんその過程で、子どもの側にも、さまざまな葛藤(かっとう)が起きることがある。エディプスコンプレックス※も、その一つということになる。
が、最近の問題として、父親自身が、じゅうぶんな父親像をもっていないことがあげられる。父親自身が、「父親」を知らないケースである。
さらに父親自身が、マザコンタイプであったりして、ベタベタになっている母子関係を見ながら、それに気がつかないということもある。あるいはさらに、父親自身が、母親の役割にとってかわろうとするケースもある。
溺愛パパの誕生というわけである。
このように、現代の親子関係は、今、混沌(こんとん)としている。しかし今こそ、改めて、父親の役割とは何か、母親の役割とは何か。それを冷静に判断してみる必要はあるのではないだろうか。でないと、これから先、日本人のそれは、ますますわけのわからない親子関係になってしまう。
ここに書いたことが、あなたの親子関係をわかりやすいものにすれば、うれしい。
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※エディプス・コンプレックス……
ソフォクレスの戯曲に、『エディプス王』というのがある。ギリシャ神話である。物語の内容は、つぎのようなものである。
テーバイの王、ラウルスは、やがて自分の息子が自分を殺すという予言を受け、妻イヨカスタとの間に生まれた子どもを、山里に捨てる。しかしその子どもはやがて、別の王に拾われ、王子として育てられる。それがエディプスである。
そのエディプスがおとなになり、あるとき道を歩いていると、ラウルスと出会い、けんかする。が、エディプスは、それが彼の実父とも知らず、殺してしまう。
そのあとエディプスは、スフィンクスとの問答に打ち勝ち、民衆に支持されて、テーバイの王となり、イヨカスタと結婚する。つまり実母と結婚することになる。
が、やがてこの秘密は、エディプス自身が知るところとなる。つまりエディプスは、実父を殺し、実母と近親相姦をしていたことを、自ら知る。
そのため母であり、妻であるイヨカスタは、自殺。エディプス自身も、自分で自分の目をつぶし、放浪の旅に出る……。
この物語は、フロイト(オーストリアの心理学者、一八五六〜一九三九)にも取りあげられ、「エディプス・コンプレックス」という言葉も、彼によって生みだされた(小此木啓吾著「フロイト思想のキーワード」(講談社現代新書))。
つまり「母親を欲し、ライバルの父親を憎みはじめる男の子は、エディプスコンプレックスの支配下にある」(同書)と。わかりやすく言えば、男の子は成長とともに、母親を欲するあまり、ライバルとして父親を憎むようになるという。(女児が、父親を欲して、母親をライバル視するということも、これに含まれる。)
この説話から、一般に、成人した男性が、母親との間に強烈な依存関係をもち、そのことに疑問をもたない状態を、心理学の世界では、「エディプスコンプレックス」という。母親からの異常な愛情が原因で、症状としては、同年齢の女性と、正常な交友関係がもてなくなることが多い。
で、私も今までに何度か、この話を聞いたことがある。しかしこうしたコンプレックスは、この日本ではそのまま当てはめて考えることはできない。
その第一。日本の家族の結びつき方は、欧米のそれとは、かなり違う。その第二。文化がある程度、高揚してくると、男性の女性化(あるいは女性の男性化といってもよいが)が、かぎりなく進む。現代の日本が、そういう状態になりつつあるが、そうなると、父親、母親の、輪郭(りんかく)そのものが、ぼやけてくる。
つまり「母親を欲するため、父親をライバルとみる」という見方そのものが、軟弱になってくる。現に今、小学校の低学年児のばあい、「いじめられて泣くのは、男児。いじめるのは女児」という、逆転現象(「逆転」と言ってよいかどうかはわからないが、私の世代からみると、逆転)が、当たり前になっている。
家族の結びつき方が違うというのは、日本の家族は、父、母、子どもという三者が、相互の依存関係で成り立っている。三〇年ほど前、それを「甘えの構造」として発表した学者がいるが、まさに「甘えの関係」で成り立っている。子どもの側からみて、父親と母親の境目が、いろいろな意味において、明確ではない。
少なくとも、フロイトが活躍していたころの欧米とは、かなり違う。だから男児にしても、ばあいによっては、「父親を欲するあまり、母親をライバル視することもありうる」ということになる。
しかし全体としてみると、親子といえども、基本的には、人間関係で決まる。親子でも嫉妬(しっと)することもあるし、当然、ライバルになることもある。親子の縁は絶対と思っている人も多いが、しかし親子の縁も、切れるときには切れる。
また親なら子どもを愛しているはず、子どもならふるさとを愛しているはずと考える、いわゆる「ハズ論」にしても、それをすべての人に当てはめるのは、危険なことでもある。そういう「ハズ論」の中で、人知れず苦しんでいる人も少なくない。
ただ、ここに書いたエディプスコンプレックスが、この日本には、まったくないかというと、そうでもない。私も、「これがそうかな?」と思うような事例を、経験している。私にもこんな記憶がある。
小学五年生のときだったと思う。私はしばらく担任になった、Iという女性の教師に、淡い恋心をいだいたことがある。で、その教師は、まもなく結婚してしまった。それからの記憶はないが、つぎによく覚えているのは、私がそのIという教師の家に遊びに行ったときのこと。川のそばの、小さな家だったが、私は家全体に、猛烈に嫉妬した。家の中にはたしか、白いソファが置いてあったが、そのソファにすら、私は嫉妬した。
常識で考えれば、彼女の夫に嫉妬にするはずだが、夫には嫉妬しなかった。私は「家」嫉妬した。家全体を自分のものにしたい衝動にかられた。
こういう心理を何と言うのか。フロイトなら多分、おもしろい名前をつけるだろうと思う。あえて言うなら、「代償物嫉妬性コンプレックス」か。好きな女性の持ち物に嫉妬するという、まあ、ゆがんだ嫉妬心だ。
そういえば、高校時代、私は、好きだった女の子のブラジャーになりたかったのを覚えている。「ブラジャーに変身できれば、毎日、彼女の胸にさわることができる」と。そういう意味では、私にはかなりヘンタイ的な部分があったかもしれない。(今も、ある!?)
話を戻すが、ときとして子どもの心は複雑に変化し、ふつうの常識では理解できないときがある。このエディプスコンプレックスも、そのひとつということになる。まあ、そういうこともあるという程度に覚えておくとよいのでは……。何かのときに、役にたつかもしれない。
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【はやし浩司先生のプロフィール】
1947年岐阜県生まれ。
金沢大学法文学部法学科卒業。
日豪経済員会給費留学生として、オーストラリアメルボン大学ロースクール(法学院)研究生、三井物産社員、幼稚園教師を経て、浜松市にてBW(ブレイン・ワーク)教室、幼児研究所を設立。
独自の哲学・教育論をもとに幼児教育の実践を行っています。
現在は教育評論家として、ホームページやブログ、メルマガ、ユーチューブ等を利用しながら執筆活動に専念しています。
●著書に「子育て最前線のあなたへ」(中日新聞社)、「おかしな時代のまともな子育て論」(リヨン社・2002年3月発行)、「ドラえもん野比家の子育て論」(創芸社)など、30冊余り。
うち4冊は中国語にも翻訳出版されています。
「まなぶくん幼児教室」(学研)、「ハローワールド」(創刊企画・学研)などの無数の市販教材も手がけ、東洋医学、宗教論の著書も計8冊出版されています。
●教育評論家、現在浜松市伝馬町でBW教室主催。
●現在は、インターネットを中心に活動中。
メルマガ・オブ・ザ・イヤー受賞(08)、
電子マガジン読者数・計3000人(09)、ほか。
「BW公開教室」を、HP上にて、公開中。
(HPへは、「はやし浩司」で検索、「最前線の子育て論byはやし浩司」より。)
過去の代表的な著書
・・・などなど30冊余り出版されています。