適切な幼児教育は後の人間形成において大変重要であると考えていますが注意していただきたいことがあります。
幼児教育は完璧な育児や教育を推奨するものではないということです。
・愛情が第一を忘れない
・他の子どもと比較をしない
・完璧主義にならない
・結果を期待しすぎない
・ゆったりとした心を持つ
子どもへの過剰な期待は親子共に大きなストレスになる危険性あります。
ゆったりと構え、少しくらい上手くいかなくても「まぁ、いっか。」に考えられることが幼児教育を続けられるポイントになります。
「家族コンプレックス」について はやし浩司先生の子育て随筆
昨夜(2・22)、民放テレビを見ていたら、親離れする子どもの心理について、報道していた。断絶した親子を、どうすれば、またもとの状態に戻せるか、と。
「もとの状態」というのは、「幼児のころのように、いっしょにプールで水遊びしたような状態」(ある父親の言葉)をいうのだそうだ。そういう風景をとったビデオを見ながら、一人の父親は、ポツリと、こう言う。
「あのころの娘は、どこへ行ったのでしょうかねエ……」と。(多分、ディレクターかだれかに、そう言うようにしむけられたのだろうが……。)
子どもが親離れをする。……しかしそれはある意味で、当然の結末である。テレビ局側の報道姿勢も、コメンテイターも、「そうであってはいけない」という大前提で、この問題を論じていた。が、しかし、どうして、そうであってはいけないのか。
子どもは思春期が近づくと、「家族」というワクから離れて、「自分」というものを確立するようになる。これを心理学では、『個人化』と呼んでいる。
この個人化は、人間の成長には、必要不可欠なものであり、この個人化がうまくできないと、精神的に未熟な、ナヨナヨとしたおとなになってしまう。つまり「家族」というワク、あるいは足かせが、ときとして、この個人化を、阻害してしまうことがある。
私の知人の中には、50歳をすぎても、親戚づきあいを第一に考えている人がいる。何かにつけて、「親戚」「親戚」と、「親戚」という言葉を、口にする。そうした生きザマが、まちがっているとは思わないが、そうした心理状態は、広い意味で、マザーコンプレックス(マザコン)の人がもつ心理状態に似ている。
そのマザコンという言葉をもじるなら、「家族」や「親戚」というワクの中から出られないでいる状態は、「ファミリー・コンプレックス(家族コンプレックス)」、あるいは、「親戚コンプレックス」ということになる。(注、この二つの名前は、私がつけた。)
徹底した依存関係を、家族どうし、あるいは親戚どうしの間に求めようとする。
しかしこうした依存性は、当然のことながら、その人の精神的自立を阻害する。その結果、ここに書いたように、精神的に未熟な人間になる。
一般論から言えば、マザコンタイプの人ほど、親戚づきあいを、重要視する。「依存性」という部分では、心理状態が共通するからである。
息子や娘のために、遠い親戚にまで声をかけ、派手な結婚式をしたがる、など。盆暮れの実家の墓参りを、最重要のこころがけと位置づけることもある。
もっとも、その人が自分だけでそうするのは構わない。が、このタイプの人にかぎって、そうでない人を、徹底的に非難する。自己中心性が強く、「自分は正しい」と思う、その返す刀で、「あんたは、まちがっている」「人間として、失格だ」と言う。
その報道番組でも、そうした表現が、ずいしょに見られた。一人、「親に向かって……」というようなことを言っている、父親もいた。いまどき、「?」な表現である。
家族は、大切だが、しかしその家族が、子どもの自立の足かせになってはいけない。それは子どもにとっては、母親は絶対的なものではあるが、同時に、子どもを、マザコンにしてはいけないという論理に似ている。
が、問題は、それだけに終わらない。
この日本では、そういう形であるにせよ、親に反発する子どもを、「悪」と決めてかかる風潮が強い。「できそこない」とか、「非行」とかいうレッテルを張ることもある。
その結果、子どもは、その罪悪感を覚えるようになり、生涯にわたって、心のキズ、あるいは負い目としてしまうことがある。
そんなわけで、「家族」や「親戚」は、大切にしなければならないものだが、だからといって、それを子どもに押しつけてはいけない。こうした問題では、親は、子どもから一歩退いて考える。そういう姿勢が、子どもの成長をうながすことになる。
【追記(1)】
この原稿を書いているとき、では、どういう人が、(たくましい人)であり、どういう人が、(未熟な人)であるかということを考えた。
たくましい人というのは、イメージとしては、荒野を野宿しながら、ひとりで生きていくような人をいう。
未熟な人というのは、いつも何かに依存しながら生きていく人をいう。名誉や地位、肩書きや財産など。過去の学歴や、職歴にぶらさがって生きていく人も、それに含まれる。さらに、父親や母親をことさら美化して、それに依存する人。親戚づきあいを第一に考えて、親戚に依存する人も、それに含まれる。
未熟な人というのは、何かにつけてものや人に依存しやすいので、このタイプの人は、たいていこれらすべてのものに、同時に、依存しながら生きていることが多い。
両親や、親戚づきあいは、当然のことながら、それなりに大切にしなければならないものである。しかしことさらそれを強調する人というのは、自分の依存性(=精神的な欠陥)をごまかすために、強調することが多い。
あなたの周囲にも、このタイプの人は、必ずいるので、観察してみるとおもしろいのでは……。
【追記(2)】
子どもは親から、生まれる。しかし子どもは子どもであって、決して、親のモノではない。だからその子どもが、親の思いどおりにならないからといって、親は、それを嘆く必要はない。いわんや、子どもを責めてはいけない。
依存性の強い親ほど、子どもの依存心に甘くなる一方、自分は、自分で、今度は、子どもに依存しようとする。「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」と。
そして親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子として、その依存性を、見すごしてしまう。
こうした日本人独特の依存性は、まさに日本という島国に生まれた土着性のようなもの。日本人の体質の中に、しっかりとしみこんでいるので、それに気づく人は少ない。
どこかのだれかが、涙ながらに、「私は母に産んでいただきました。女手一つで育てていただきました」などと話したりすると、「?」と思う前に、それを美談として、安易にもてはやしてしまう。
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【はやし浩司先生のプロフィール】
1947年岐阜県生まれ。
金沢大学法文学部法学科卒業。
日豪経済員会給費留学生として、オーストラリアメルボン大学ロースクール(法学院)研究生、三井物産社員、幼稚園教師を経て、浜松市にてBW(ブレイン・ワーク)教室、幼児研究所を設立。
独自の哲学・教育論をもとに幼児教育の実践を行っています。
現在は教育評論家として、ホームページやブログ、メルマガ、ユーチューブ等を利用しながら執筆活動に専念しています。
●著書に「子育て最前線のあなたへ」(中日新聞社)、「おかしな時代のまともな子育て論」(リヨン社・2002年3月発行)、「ドラえもん野比家の子育て論」(創芸社)など、30冊余り。
うち4冊は中国語にも翻訳出版されています。
「まなぶくん幼児教室」(学研)、「ハローワールド」(創刊企画・学研)などの無数の市販教材も手がけ、東洋医学、宗教論の著書も計8冊出版されています。
●教育評論家、現在浜松市伝馬町でBW教室主催。
●現在は、インターネットを中心に活動中。
メルマガ・オブ・ザ・イヤー受賞(08)、
電子マガジン読者数・計3000人(09)、ほか。
「BW公開教室」を、HP上にて、公開中。
(HPへは、「はやし浩司」で検索、「最前線の子育て論byはやし浩司」より。)
過去の代表的な著書
・・・などなど30冊余り出版されています。