ウチ意識

 

適切な幼児教育は後の人間形成において大変重要であると考えていますが注意していただきたいことがあります。
幼児教育は完璧な育児や教育を推奨するものではないということです。


 ・愛情が第一を忘れない
 ・他の子どもと比較をしない
 ・完璧主義にならない
 ・結果を期待しすぎない
 ・ゆったりとした心を持つ 

子どもへの過剰な期待は親子共に大きなストレスになる危険性あります。
ゆったりと構え、少しくらい上手くいかなくても「まぁ、いっか。」に考えられることが幼児教育を続けられるポイントになります。

「ウチ意識」について        はやし浩司先生の子育て随筆

 はやし浩司先生どこからどこまでが、「ウチ」で、どこから先が、「ウチ」でないのか。よく学校の先生が、この言葉を使う。「ウチの生徒が、不祥事を起こしました」「ウチの生徒が、○○賞を受賞しました」と。

 こういう意識を、「ウチ意識」という。内側の「内」という意味である。

 このウチ意識は、さまざまな形で、さまざまな方向から、一人の子ども(人間)をしばる。数年前も、こういうことがあった。

 一人の中学生が、何かの英語のスピーチコンテストで、優勝した。全国大会での優勝である。そのときのこと。

 その子どもが通っていた英会話教室の前を見たら、その子どもの写真と、新聞記事を大きく引き伸ばした写真が、誇らしげに飾ってあった。「ウチの子ども」とは書いてなかったが、「GG君が、見事、優勝!」と。

 同じころ、その子どもが通う中学校の先生も、こう言った。「ウチの生徒が……」と。

 もちろん親にしてみれば、「ウチの子ども」ということになる。しかし問題は、このことではない。

 こうした「ウチ意識」には、両面性がある。(しばる側)と、(しばられる側)である。
つまりウチ意識によって、親や教師を子どもをしばる。しかしその一方で、しばられる側は、ウチ意識によって、親や教師に、しばられる。しばられながら、自ら、親や教師に帰順しようとする。そしてそれが高じた状態が、「忠誠」ということになる。

 その中身と言えば、保護と依存の関係ということになる。もちろん保護と依存の関係が悪いというのではない。親子の間には、ある程度、保護と依存の関係があって、当たり前である。教師と生徒の間でも、そうだ。しかし問題は、その程度。

 言うまでもなく、保護と依存の関係が強ければ強いほど、子どもの自立は、遅れる。そこで親は、子育てをしながら、その保護意識を弱めていかねばならない。同時に、子どもの依存性を、はねのけていかねばならない。

 そこで最初のウチ意識の話にもどる。

●ウチ意識の正体
を使って、親や教師は、子どもを私物化する。私物化した上で、子配する。

 一方、子どもの側は、私物化された上で、親や教師に帰属する。ばあいによっては、隷属する。

 ここで誤解してはいけないのは、帰属する側にとっては、帰属することは、決して不快なことではないということ。人間関係をうまく結べない人(子ども)は、よく、相手に隷属することによって、自分にとって居心地のよい世界を作ろうとする。たとえば集団非行が、それにあたる。

 隷属することは、それ自体、甘美なことでもある。ほかによく見られるのは、どこかのカルト教団の信者が、その教団に隷属するケースである。

 こうした信者は、教団に、徹底的に隷属することで、まず「考える」という習慣を放棄する。そして一方的に、まさに上意下達(かたつ)方式で、思想を注入してもらう。それはたいへん楽な世界でもある。

 子どもは、隷属することで、自分にとって居心地のよい世界をつくる。そしてそれが(しばられる側)の、「ウチ意識」をつくる。子ども自身までが、「ウチの学校は……」と言い出す。

●日本人独特の意識 

 今、気づいたが、これは言葉の問題か。

 よく日本では、自分の母校を指さして、「あれは、ぼくの学校」というような言い方をする。しかし英語では、そういう言い方をしない。「あれは、ぼくが通った学校」というような言い方をする。

 学校の先生にしても、日本では、「ウチの生徒が……」というような言い方をする。しかし英語では、「この学校に通う生徒が……」というような言い方をする。

 私も一度、失敗したことがある。

 オーストラリアの友人に、私の母校(高校)の写真を送り、「This is my school.(これはぼくの学校だ)」と書いてしまった。その友人は、その学校を、私が所有する学校と勘ちがいしてしまった。

 しかしこれはどうやら言葉だけの問題でもなさそうだ。

 日本人は、いまだに江戸時代の身分制度の亡霊を引きずっている。少し前までは、職業で、その人の価値が判断された。「少し前」というのは、私が学生時代のことだ。

 ウソだと思うなら、現在、60代、70代の人と、ていねいに話しあってみるとよい。ほとんどの人が、そういう意識を、もっているのがわかる。

 私もあるとき、ある男(現在70歳)に、こう言われたことがある。「君は、学生時代、学生運動か何かをしていて、どうせロクな仕事にありつけなかったのだろう」と。つまり「幼稚園での講師は、ロクな(=たいした)仕事ではない」と。

 そこで日本人独特の、学歴意識が生まれ、つづいて大企業意識が生まれた。わかりやすく言えば、どこのどういう団体に属しているかで、その人の身分や、価値が決まった。それはまさしく、江戸時代の亡霊以外の、何ものでもない。

 そしてそういう意識から、「ウチ意識」が生まれた。

 少し飛躍した考え方のように思う人がいるかもしれない。しかしこうした意識は、日本に生まれ育ち、日本だけしか知らない人には、理解できないかもしれない。脳のCPU(中央演算装置)の問題だからである。

 一つの例としてよくあげられるのは、こんな話である。

 ブラジルで、現地の人に、私自身が、聞いた話である。

 ドイツ人は、ブラジルへ移住してくると、彼らは、好んで、人里離れた場所に、ひとりで住みたがる。しかし日本人は、ブラジルへ移住してくると、すぐ日本人どうしが集まり、そこでグループをつくる、と。

 ドイツ人の移民は、移住したそのつぎの日から、「ぼくはブラジル人だ」というが、日本

人は、二世になっても、三世になっても、「ぼくは日本人だ」「日系人だ」と、言いつづけ
る、と。

 当然のことながら、「ウチ意識」が強ければ強いほど、そうでない世界の人を排斥する。
そして自分でも、新しい社会に、同化できなくなる。

●ウチ意識がもつ問題 

 「ウチ」、つまり「内」の反対が、「外」。「ウチ意識」の反対側にいる人間を、日本では、「ガイジン(外人)」という。

 今では、そういう意識もないまま使うことが多いが、「ガイジン」という言葉は、少し前までは、差別用語として使われていた。

たとえば日本に住む外国の人たちは、どういうわけか、自分たちが、「ガイジン」と呼ばれるのを、嫌う。心のどこかで、その差別を感ずるからではないのか。

 先にも書いたように、この「ウチ意識」には、(守りあう)という意味のほか、その外の世界の人を、排斥するという意味も含まれる。と、同時に、その意識が強ければ強いほど、その人自身も、外の世界に同化できなくなる。

 たとえばカルトと呼ばれる宗教団体では、ほかの宗教団体との接触を、きびしてく禁じているところが多い。もう30年ほど前のことだが、こんな事件があった。

 中学校の修学旅行で、京都のどこかの神社へ行ったときのこと。一人の子ども(男子)が、神社の鳥居の前で、かがんで、動かなくなってしまったという。引率の教師が見ると、その子どもは、青い顔をして、体をワナワナと震わせていたという。

 あとで聞くと、その中学生一家は、ある仏教系宗教団体に属していた。そしてその宗教団体では、「神社へ行くだけでも、バチが当たる」と、信者に教えていた。つまりその中学生は、その「バチ」におびえた。

 これは極端な例だが、「ウチ」という言葉には、そういう意味も含まれる。

●ウチ意識との戦い

 自分の中にひそむ「ウチ意識」と、どう戦っていくか。それはとりもなおさず、自由への戦いということになる。

 あなた自身も、そのウチ意識という無数の糸に、しばられている。あるいは反対の形で、あなたの家族や、職場の人を、無数の糸でしばっているかもしれない。

 こうした問題は、私の教室でも、ないことはない。

 冒頭にあげた、GG君というのは、実は、私がそのときまでに、11年間教えてきた子どもである。幼稚園の年中児のときから、中学三年までだから、そういう計算になる。

 本当のことを言えば、私は堂々と、「ウチの生徒」と言いたかった。しかし学校の先生が、先に「ウチの生徒」と言い出してしまった。つづいて、英会話教室の先生が、先に、「ウチの生徒」と言い出してしまった。

 しかし実際には、私は、そうした成果(?)を、誇ったことは、過去に一度もない。子どもたち(生徒たち)だって、そうは思っていない。

 私は親から委託された仕事を、忠実にこなすだけ。お金をもらっているのだから、それは当然のことではないか。だからその成果があっても、それはある意味で当たり前のことで、誇るべきことではない。

 最近でこそ、少し元気がなくなったが、私の教室の進学率は、どこの進学塾にも、負けなかった。はじめて教えた四人の女子高校生たちは、全員、東京女子、お茶の水女子大、慶応大、フェリス女子大などの大学へと進学していった。こうした実績(?)は、それから10年あまりもつづいた。今から、33年前のことである。

 しかし私は、「ウチの生徒」という言い方をしたことがない。それは私自身が、「ウチ」という言葉で、がんじがらめに、しばられているからにほかなからない。そしてその不快感を、いやというほど、感じているからにほかならない。

 で、この問題は、やがて、親子の問題へと、もどってくる。

●泣き明かした母親 

 K氏(52歳・男性)が、私に、こんな話をしてくれた。

 「私の母は、私が結婚した夜、『悔しくて、悔しくて、泣き明かした』というのですね。
最近になって、叔母から、その話を聞きました。私の前では、変った様子は見せなかったのですが、私の知らないところで、母が、叔母にそんな話をしていたと知り、ショックを受けました」と。

 K氏の母親が、なぜ泣き明かしたか。理由など言うまでもない。K氏の母親は、息子を、嫁に取られた悔しさから、泣いた。

 こうした例は、少なくない。日本人なら、心情的に共感を覚える人も、多いはず。しかしこの母親の意識の中に、日本人がもつ、独特の「ウチ意識」の原型をみる。その母親にしてみれば、K氏は、「私の息子」をはるかに超えた、「ウチの息子」なのだ。

 しかし同時にここで理解しなければならないのは、K氏自身が感じたであろう、不快感である。K氏は、「ぞっとした」とか、「もういいかげんにしてほしいと思った」などと、どこか笑いながら言った。が、そんな生(なま)やさしいものではなかったというのが、正しい。

 K氏は、こうも言った。「私はね、ストーカーにねらわれる女性の気持ちが、はじめてわかりました」とも。

 つまりそれに似た不快感を、K氏は、味わったという。「ウチ意識」も、高ずると、そこまで相手をしばる。そしてその意識に、相手も、しばられる。

●私は私論

 この「ウチ意識」と戦うためには、どうするか。自分がしばられるのは、しかたないとしても、自分自身の中にある「ウチ意識」と、どう戦うか。

 その一つの方法が、「私は私論」がある。

 どこまでいっても、「私は私。あなたはあなた」をつらぬく。こうして私を確立することによって、その結果として、相手をからめる糸を切る。しかしこれには、大きな条件がある。

 糸を切るためには、自分を、それなりに、高めなければならない。「ウチ意識」そのものは、低次元な意識である。それはまちがいないが、その低次元さがわかるまで、自分を高めなければならない。

 よい例が、進学塾の、自己宣伝である。「04年度、SS高校XXX名、合格!」と。

 恐らく進学塾の経営者は、そういう低次元な宣伝をしながらも、それを低次元とは思っていないだろう。あるいは、誇らしくすら思っているかもしれない。

言うまでもなく、そう思うのは、自分自身が低次元だからである。知的能力はともかくも、人間的には、どうしようもないほど、低次元である。そうした低次元性に、まず、気がつかねばならない。

 相手が低次元であるということは、自分がより高い山に登ってみてはじめてわかること。
つまり私が私であるためには、その私を高めなければならない。でないと、どこかのカルト教団の本部へ、どこかアホじみた笑顔(失礼!)をつくって参拝する、あのオジチャンやオバチャンと、同じようなことをすることになる。

 「私は私」という意識は、その結果として、その人にもたらされる。そしてそれを土台として、自分の中にひそむ「ウチ意識」と戦うことができる。

●自由への道

 ウチ意識があるかぎり、その人の魂の自由はない。「ウチの息子」「ウチの娘」「ウチの財産」「ウチの名誉」「ウチの地位」などなど。

 それはちょうど、金持ちが、泥棒を恐れるのに似ている。へたにお金があるから、泥棒をこわがる。心配する。どこかへ旅行にでかけても、気が休まらない。

 しかしもしその財産がなければ、どうなるか。昔からこう言う。『無一文の人は、泥棒を心配しない』と。盗まれるものが、ないからだ。

 同じように、へたに「ウチ意識」があるから、その人は、その人自身の「ウチ意識」にしばられてしまう。そして身動きがとれなくなってしまう。が、もしその人から、「ウチ意識」を取ったら、どうなるか。

 そうなれば、もうこわいものはない。と、同時に、その人の魂は、解放される。その人は、真の自由を手に入れることができる。

 「ウチ意識」……だれでももっている、ごく何でもない意識だが、この意識には、さまざまな問題が隠されている。そしてこの問題を考えていく過程で、私は、「真の自由」への道のヒントを得た。

 まだこの問題については、考えなければならない点もいくつかある。思想的にも、不備な点もある。それはまた別の機会に考えるとして、ひとまず、ここで筆をおく。みなさんの生きザマの何かの、参考になれば、うれしい。

 ついでに一言。

真の自由を手に入れるために、一つの方法としては、「ウチの……」というような言い方をしたら、どんなときそう言うのか、そのときの心の中身を、さぐってみるとよい。

もしそのとき、ふと、その言葉に戸まどいを覚えたら、あなたはすでに、自由への一歩を踏み出したことになるのでは……。ここから先のことは、まだ私にも、よくわからないので、ここまでにしておく。



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情報・画像の出展:はやし浩司先生

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【はやし浩司先生のプロフィール】

はやし浩司先生1947年岐阜県生まれ。

金沢大学法文学部法学科卒業。
日豪経済員会給費留学生として、オーストラリアメルボン大学ロースクール(法学院)研究生、三井物産社員、幼稚園教師を経て、浜松市にてBW(ブレイン・ワーク)教室、幼児研究所を設立。

独自の哲学・教育論をもとに幼児教育の実践を行っています。

現在は教育評論家として、ホームページやブログ、メルマガ、ユーチューブ等を利用しながら執筆活動に専念しています。

●著書に「子育て最前線のあなたへ」(中日新聞社)、「おかしな時代のまともな子育て論」(リヨン社・2002年3月発行)、「ドラえもん野比家の子育て論」(創芸社)など、30冊余り。

うち4冊は中国語にも翻訳出版されています。

「まなぶくん幼児教室」(学研)、「ハローワールド」(創刊企画・学研)などの無数の市販教材も手がけ、東洋医学、宗教論の著書も計8冊出版されています。

●教育評論家、現在浜松市伝馬町でBW教室主催。

●現在は、インターネットを中心に活動中。

メルマガ・オブ・ザ・イヤー受賞(08)、

電子マガジン読者数・計3000人(09)、ほか。

「BW公開教室」を、HP上にて、公開中。

(HPへは、「はやし浩司」で検索、「最前線の子育て論byはやし浩司」より。)

過去の代表的な著書

子育て格言ママ100賢1子育て格言ママ100賢子育て格言ママ100賢子育てはじめの一歩

子どもの心・100の育て方目で見る漢方診断クレヨンしんちゃん 野原家の子育て論子育てストレスが子どもをつぶす

ドラえもーん・野比家の子育て論 子育て最前線のあなたへ受験に克つ子育て法ポケモン・カルト―あなたの子どもがあぶない!

・・・などなど30冊余り出版されています。

はやし浩司先生のHP・ブログ

はやし浩司のホームページ はやし浩司先生のメインサイトです。
子育て・幼児教育など、先生が実践されてきた内容が凝縮されています。
きっと先生の優れた教育感、人間味溢れる魅力をお分かりいただけると思います。
はやし浩司の書籍 先生が執筆をした過去の原稿をダウンロードして読めます。

読者の相談ページや進学問題、パパママの子育て診断ページもあります。

最前線の子育て論byはやし浩司(メルマガ版) メルマガ版「最前線の子育て論byはやし浩司」は2007年10月、
60000誌の中で、TOP-ONEに評価され、2008年のメルマガオブザイヤーを受賞しています。

先生の素晴らしい教育・子育て論を見てみて下さい。

当サイトでも掲載させていただいている記事が盛りだくさんです。
最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe−Blog) 最前線の育児論のブログです。
子育てや教育について様々な視点・角度で執筆されています。

最前線の子育て論byはやし浩司 (ヤフーブログ) 最前線の子育て論(ヤフーブログ版)です。
教育に対して様々な情報を掲載しています。
主に先生の哲学者的な内容を見ることができます。
しかし、先生は博識ですね〜。
お孫様のかわいい画像と、日記、教育論を掲載しています。

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