
適切な幼児教育は後の人間形成において大変重要であると考えていますが注意していただきたいことがあります。
幼児教育は完璧な育児や教育を推奨するものではないということです。
・愛情が第一を忘れない
・他の子どもと比較をしない
・完璧主義にならない
・結果を期待しすぎない
・ゆったりとした心を持つ
子どもへの過剰な期待は親子共に大きなストレスになる危険性あります。
ゆったりと構え、少しくらい上手くいかなくても「まぁ、いっか。」に考えられることが幼児教育を続けられるポイントになります。
「子どもの判断基準」について はやし浩司先生の子育て随筆
A先生と、B先生が、何かちがったことを言ったとする。そのとき子どもは、A先生と、B先生のどちらの意見に従うだろうか。子どもは、選択を迫られるわけだが、しかし、問題は、どちらを選択するかではなく、何を基準にして、どちらを選ぶか、である。以前、こんなことがあった。
中学一年生の女の子に、英語を教えているとき、その女の子が、「I walk in the park.」という英文を、「公園の中を散歩しているわ」と訳した。
そこで私が、「『私は公園の中を歩く』と訳しておきなさい」と言うと、その女の子は、猛然とそれに反発した。「先生の日本語は、おかしい」「この絵(テキストの挿絵)では、この人は、散歩してる」と。
その女の子は、長い間、英会話教室に通っていた。先生は、日本人と外人の、半々くらいの教室だった。市内でも、有数の大規模校であった。
こういうケースでは、子どもは、まず、その大規模校の先生の意見に従う。つまり私の
言うことなど、聞かない。
私「『〜〜している』という言い方は、また別のところで勉強するから、今は、『歩く』と訳しておきなさい。いつか、その理由を話してあげるから」
女「でも、おかしい。その日本語」
私「もともと英語がおかしいのだよ。君たちのレベルにあわせて、テキストを作ってあるのだから」
女「ふつう、公園の中を歩いているとき、『私は公園の中を歩く』なんて、わざわざ言うかしら?」
私「しかたないよ。そう書いてあるのだから」
女「そんな日本語、おかしいわよ。今度、X先生(大規模校の先生)に聞いてみる」
私「ああ、聞いてみてごらん」と。
実際には、子どもがこのような形で、反発するようになると、指導は、もうできない。
教育に必要な信頼関係そのものが消える。
それはともかくも、子どもは、?規模の大きな方の先生の意見により従う。わかりやすく言えば、中身よりも、外見で、先生を判断する。
……と書いても、それは当然のことである。子どもには、まだ中身を見る力も、能力もない。しかしこの問題には、もう一つ深刻な問題が、隠されている。
●謙虚さをなくす子どもたち
この時期の子どもは、いろいろな意味で、生意気になる。生意気になるのが、悪いのではない。子どもは、生意気になることで、背伸びをする。背伸びをすることによって、自己主張を繰りかえす。
しかし学ぶことに対して、謙虚さまで、なくしてしまったら、おしまい。日本語には、「ナメル」という言い方がある。この言葉にかわる正しい言葉を知らないので、その言葉をそのまま使う。先生をナメルようになってしまったら、おしまい。
子どもは自ら、自己中心的な世界へと入っていく。そして自分のまわりに、厚いカベを作ってしまう。同時にものの考え方が自閉的になる。つっぱり症状が現れることもある。
私「だから今は、『私は公園の中を歩く』としておいてよ」
女「ウッセエナー。しとけばいいんでしょ、しとけば……」
私「まあ、君がそれでいいというなら、それでもかまわないけど……」
女「だったら、最初から、そう言ってくれればいいじゃん。すなおに……」と。
●原因は、無理な学習+過剰期待
抑圧された緊張状態が長くつづくと、子どもの心は、確実にゆがむ。(子どもでなくても、当然だが……。)
その抑圧された緊張状態の第一は、言うまでもなく、無理な学習と親の過剰期待。あるいは親の過剰期待と無理な学習。どちらが先でもよいが、こういう環境で、子どもは、心をゆがめる。そしてそれが慢性的につづくと、独特の症状を示すようになる。
なげやりな態度。
無視的な反応。
独特の歩き方(肩をいからせる。鋭い目つき。腕を下へブラブラさせる)。
少しぐらい成績があがっても、決して親は満足しない。「もっと」「もっと」と子どもを追いたてる。「うちの子はやればできるはず」という、信仰に似た考え方をもっている。子どもの能力を信ずることは大切だが、親の過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。
子どもはやがて、その欲求不満の矛先(ほこさき)を、学校の教師や、塾の教師に向ける。本来なら親に矛先を向けるのがよいが、このタイプの子どもは、親の前では、むしろおとなしい。仮面をかぶる。
「やればできるはず」と親に思わせることで、自分の立場を守ろうとする子どももいる。
以前、ある子ども(小五男児)に、「君の力は、君が一番よく知っているはずではないか。
だったら、お母さんに正直にそう言いなさい」と言ったことがある。しかしその子どもは、自分の力のことは、決して母親に話さなかった。
話せば話したで、自分のわがままが通らなくなる。つまりその子どもは、親に、「ぼくはやればできるはず」と期待させることで、自分の立場を守っていた。
こうしたケースは、教室でもよく経験する。たとえば、私は以前、『悲しきピエロ』という原稿を書いた。その中で、勉強のできない子どもが、わざとちょろけて見せて、皆を笑わせる子どものことを書いた。皆を笑わせることによって、自分を隠すから、『悲しきピエロ』と呼んだ。
「勉強ができない(バカ)」と思われるより、「おもしろい男」と思われるほうが、まだ気が楽だからである。
親に「やればできるはず」と思わせる子どもの心理も、これに似ている。
●子どもの能力を知る
子どもの能力を正確に知るということは、家庭学習の基本中の基本。そこでいくつかの鉄則がある。
(1)「やればできるはず」と思ったら、「やってここまで」と思いなおす。
(2)「まだがんばれる」と思ったら、その一歩手前でやめる。
(3) ほどほどのところであきらめ、子どもをほめる。「よくやった」と。
しかし実際には、これがむずかしい。親にしても、自分が見る子どもは、せいぜい自分の子どもを含めて、一人か二人。子どもの能力というのは、多くの子どもと比較してみて、はじめてわかる。
はっきり言おう。子どもの知的能力は、決して平等ではない。たとえば小学五、六年生でも、中学生でもなかなか解けないような、連立方程式の問題でも、独自の解き方で解いてしまう子どもがいる。しかも瞬時に、スラスラと解いてしまう。
その一方で、学習障害の子どもは別として、分数の意味すら理解できない子どももいる。
こうした「差」は、一生の間に、開くことはあっても、縮まることは、絶対にない。いわんや、その時期の一、二年の間に、縮まることは、絶対にない。
にもかかわらず、つまり分数の意味も、まだよくわかっていないような子どもに、東京の私立中学の入試問題集を与えて、「やりなさい!」は、ない。
多かれ少なかれ、どの親も、こうした無理を重ねる。そして結果として、子どものやる気を奪い、成績をさげ、あげくのはてには、子どもの心まで破壊する。
●子どものリズムを見る
どんな子どもにも、その子どもの学習リズムというものがある。このリズムを見守り、それを育てていく。
もし家庭での子どもの学習指導に王道があるとするなら、これが王道である。
しかしこのリズムを作るのがたいへん。たとえば読書指導にしても、子どもが自然な形で、読書を楽しむようになるまでに、数年はかかる。毎週、図書館通いをしても、それくらいの時間はかかる。
もっと簡単な例では、毎日の家庭学習がある。毎日学校から帰ってきて机に向かうという習慣をつくるのにも、やはり数年はかかる。30分、毎日、書き取りや計算練習をさせるのも、そうだ。
それを親がある日、子ども叱って、「本を読みなさい」「勉強しなさい」と。私から見れば、もうメチャメチャな指導なのだが、その(メチャメチャさ)が、親にはわからない。
しかもこのリズムは、たいへんもろい。作るのには、数年かかっても、こわすのは、たった一週間でよい。数日でよい。一日でよい。
「明日から進学塾で、週3回、勉強!」と。
たったこれだけのことで、こなごなに破壊される。
しかし親にはそれがわからない。わからないばかりか、破壊したという意識すら、ない。
それがわからなければ、反対の立場で、考えてみることだ。
●自分のこととして……
あなたにはあなたの生活のリズムがある。仕事をもっているなら、なおさらだ。そういうところへ、ある日だれかが入りこんできて、「明日から、毎日、30分、内職をしなさい」「来週から、時間をつくって、週3回、清掃奉仕活動をしなさい」と言ったら、あなたはどうなるだろうか。どうするかではなく、どうなるか、だ。
あなたの生活のリズムは、それでまったく狂ってしまう。ばあいによっては、何も家事が手につかなくなってしまう。
さらに子どもは、学校という場で、毎日、八時間労働をしている。その労働の上に、さらに夜の労働である。親は、子どもを、スーパーマンか何かのように思うかもしれないが、あなたと同じ、人間である。ある意味で、あなたより、ずっとか弱い。
夜の学習でがんばれば、その分だけ、昼間の学習(学校)が、おろそかになるだけ。どうして、世の親たちよ、こんな簡単なことがわからないのか!
子どものリズムを感じたら、そのリズムを大切にする。守る。そしてそのリズムの上に、つぎのリズムを重ねていく。これが王道である。
中には、その時期になると、(やらせればやらせるほどいい)と考えて、塾のかけもち、プラス家庭教師……と、もうメチャメチャの上に、さらにメチャメチャな勉強を、子どもに強いるケースもある。
しかしこうなれば、失敗は、時間の問題。やがて子どもは、行き着くところまで行き、そこでプッツン。大きな精神的なダメージを受けることも少なくない。
そういう意味で、親というのは、因果な存在だ。自分で、行き着くところまで、行かないと、気がつかない。そして気がついたときには、すべてが終わっている。
子育てには失敗はつきものだが、その失敗を、事前に食い止めるのは、賢い親。行き着くところまで行って、はじめて気がつくのは、愚かな親ということになる。今、その愚かな親が、あまりにも多すぎる。
追記】
今朝も、新聞の折込広告に、どこかの進学塾のものが入っていた。
「新学習指導要領導入による学力低下を防止し、真の学力を身につけます」と、それにはあった。
広告には、若い講師が、熱心に黒板に向って教えている写真が載っていた。しかしその姿は、30年前の、私の姿でもある。
ただ成績を伸ばせばよいというだけに指導が、いかに危険なものであるか。私はそれをいやというほど、思い知らされている。その若い講師が、それに気づくのは、いつのことか。あるいは、一生、それに気がつくことはないかもしれない。たいていの講師は、二〇年を待たないで、そのまま転職していく。この世界では、ジジ臭い、中年講師は、お呼びではない。若さが勝負。
友人のF氏。進学塾元講師、講師歴一六年。現在、コンピュータソフト会社経営は、こう言った。「もう、あんな仕事は、コリゴリ。二度としたくない」と。まじめに考える人なら、皆、そう思うようになる。
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当サイトでは「はやし浩司」様のご厚意により許可を得て掲載させていただいております。
【はやし浩司先生のプロフィール】
1947年岐阜県生まれ。
金沢大学法文学部法学科卒業。
日豪経済員会給費留学生として、オーストラリアメルボン大学ロースクール(法学院)研究生、三井物産社員、幼稚園教師を経て、浜松市にてBW(ブレイン・ワーク)教室、幼児研究所を設立。
独自の哲学・教育論をもとに幼児教育の実践を行っています。
現在は教育評論家として、ホームページやブログ、メルマガ、ユーチューブ等を利用しながら執筆活動に専念しています。
●著書に「子育て最前線のあなたへ」(中日新聞社)、「おかしな時代のまともな子育て論」(リヨン社・2002年3月発行)、「ドラえもん野比家の子育て論」(創芸社)など、30冊余り。
うち4冊は中国語にも翻訳出版されています。
「まなぶくん幼児教室」(学研)、「ハローワールド」(創刊企画・学研)などの無数の市販教材も手がけ、東洋医学、宗教論の著書も計8冊出版されています。
●教育評論家、現在浜松市伝馬町でBW教室主催。
●現在は、インターネットを中心に活動中。
メルマガ・オブ・ザ・イヤー受賞(08)、
電子マガジン読者数・計3000人(09)、ほか。
「BW公開教室」を、HP上にて、公開中。
(HPへは、「はやし浩司」で検索、「最前線の子育て論byはやし浩司」より。)
過去の代表的な著書
・・・などなど30冊余り出版されています。