
適切な幼児教育は後の人間形成において大変重要であると考えていますが注意していただきたいことがあります。
幼児教育は完璧な育児や教育を推奨するものではないということです。
・愛情が第一を忘れない
・他の子どもと比較をしない
・完璧主義にならない
・結果を期待しすぎない
・ゆったりとした心を持つ
子どもへの過剰な期待は親子共に大きなストレスになる危険性あります。
ゆったりと構え、少しくらい上手くいかなくても「まぁ、いっか。」に考えられることが幼児教育を続けられるポイントになります。
「受験戦争のウズの中で……」について はやし浩司先生の子育て随筆
今年も、受験シーズンは、そろそろ終盤戦。残すは、高校入試だけとなった。
このH市では、どこの高校を卒業したかで、その人のステータス(?)が決まるという。昔からこのH市に住んでいる、Sさんという母親が、そう教えてくれた。
江戸時代の身分制度の名残か? はたまた亡霊か?
実に愚かな風潮なのだが、その愚かしさを疑う前に、親から子へと、代々と、バトンタッチしてしまう。だからこうした風潮は、そのまま残る。
だったら、進学校を毎年、持ちまわり制にすればよいのだが、そういうことはしない。「今年はA高校を進学校として、重点指導します。来年は、B高校です」と。多分、OBが許さないだろう。有名進学校を卒業したOBたちは、自らのより所を、その出身校に託す。
しかしこの時期も、やがて終わる。四月になるころには、それぞれがそれぞれの思いを残したまま、あたかも何ごともなかったかのように、また新しい「時」が、始まる。しかし今は、まだ狂乱のとき。
志望校の受験倍率に一喜一憂し、子どもの成績を見比べながら、ため息をもらす。やりようのない不安と焦燥感。所詮(しょせん)、どんぐりの背比べ(失礼!)なのだが、そのときどきの親には、それがわからない。まさに髪をふりかざして、子どもの受験競争に狂奔する。
もちろんそれがムダというわけではない。くだらないと言っているのでもない。考えてみれば、人間の社会は、総じてみれば、その受験戦争のようなもの。人間が自ら作り出した幻想と幻覚の中で、人間は、右往左往しているだけ。
それがわからなければ、静かに目を閉じてみればよい。そして闇の向こうに見える、深遠なる宇宙を、思いやってみればよい。あなたもやがて、こう気がつくときがやってくるだろう。
私たちは、光と時間のなす空間で、ただ踊らされているだけ、と。
かく言う私も、日々の生活の中で、踊らされているだけ? 本能と欲望、希望と絶望。そういったものが無数に交錯する現実の中で、ただ操られているだけ。どこに本当の私がいるのかさえ、わからない。わからないまま、何となく懸命に生きている。
ああ、私は自由になりたい。こうした無数のクサリを自分から解き放ち、自由になりたい。しかしその日は、いつかくるのか? あるいはこないのか?
受験シーズンの中で、もがき苦しんでいる親や、子どもを見ていると、それはそのまま、今を生きる、自分の姿であることを知る。
今を生きることの大切さは、言うまでもない。こんな議論がある。
ある仏教系の宗教団体の信者が、こう言った。「キリストは、最期は、はりつけになった。
無残な最期である。つまりそれこそが、キリスト教がまちがっているという証拠だ」と。
その教団では、「結果」を重要視する。「結果を出せ」が、信仰の柱になっている。しかし、本当に、そうか?
遠い昔、戦前のことだが、北海道で、こんな事件があった。
あるとき、あるところで、ブレーキが故障して、列車が坂を暴走し始めた。そのまま放っておけば、大事故につながる。そこで車掌は、とっさの判断で、自分の体を、線路と車輪の間に投げ出し、自分の体を犠牲にして、その列車を止めたという。
もしその宗教団体の教えが正しいとするなら、その車掌は、まちがっていたことになる。
その車掌は、無残な死に方をした。しかし私が仏なら、(神でもよいが)、そういう車掌を、イの一番に、天国に迎え入れる。
生きることに、「結果」はない。もしあるとするなら、日々の生活の、一瞬、一瞬が、その結果である。
もし(財産ができた)、(地位を得た)、(大学に合格した)ということが、「結果」というのなら、その結果のあとに、何がくるというのか。まさか、それで終わりというわけでも、ないだろう。
その教団では、「その人の結果は、臨終の姿(死に際の様子)を見ればわかる」とも教える。そして葬式が終わると、「いい死に顔だった」「すばらしい死に顔だった」と、たがいに言いあう。
しかし長い間、たとえばがんなどで苦しんだ人の死に顔は、決して美しいものではない。
はげしい痛みと、苦痛が、その人の死に顔を、そういう様相にする。
しかしがんで死ぬかどうかは、確率の問題。その信仰をしたから、がんにならないとか、しなかったから、がんになるとか、そういうことは、ありえない。あるいは、その教団の信者には、がんになった人はいないとでもいうのだろうか。
私たちが将来、どんな死に方をしたとしても、それまでの人生が、それで総括されるわけではない。大切なのは、「今」だ。今というときを、どう生きるか、だ。それでその人の人生は決まる。
※このページの文章・及び画像の著作権は「はやし浩司」様が保有しています。
当サイトでは「はやし浩司」様のご厚意により許可を得て掲載させていただいております。
【はやし浩司先生のプロフィール】
1947年岐阜県生まれ。
金沢大学法文学部法学科卒業。
日豪経済員会給費留学生として、オーストラリアメルボン大学ロースクール(法学院)研究生、三井物産社員、幼稚園教師を経て、浜松市にてBW(ブレイン・ワーク)教室、幼児研究所を設立。
独自の哲学・教育論をもとに幼児教育の実践を行っています。
現在は教育評論家として、ホームページやブログ、メルマガ、ユーチューブ等を利用しながら執筆活動に専念しています。
●著書に「子育て最前線のあなたへ」(中日新聞社)、「おかしな時代のまともな子育て論」(リヨン社・2002年3月発行)、「ドラえもん野比家の子育て論」(創芸社)など、30冊余り。
うち4冊は中国語にも翻訳出版されています。
「まなぶくん幼児教室」(学研)、「ハローワールド」(創刊企画・学研)などの無数の市販教材も手がけ、東洋医学、宗教論の著書も計8冊出版されています。
●教育評論家、現在浜松市伝馬町でBW教室主催。
●現在は、インターネットを中心に活動中。
メルマガ・オブ・ザ・イヤー受賞(08)、
電子マガジン読者数・計3000人(09)、ほか。
「BW公開教室」を、HP上にて、公開中。
(HPへは、「はやし浩司」で検索、「最前線の子育て論byはやし浩司」より。)
過去の代表的な著書
・・・などなど30冊余り出版されています。