末那識(まなしき) はやし浩司先生の教育アドバイス
●偽善
他人のために、善行をほどこすことは、気持ちがよい。
楽しい。
そう感ずる人は、多い。
俗にいう、「世話好きな人」というのは、そういう人をいう。
しかしそういう人が、本当に他人のことを思いやって、そうしているかと言えば、それはどうか?
実は、自分のためにしているだけ……というケースも、少なくない。
このタイプの人は、いつも、心のどこかで、たいていは無意識のまま、計算しながら行動する。
「こうすれば、他人から、いい人に思われるだろう」「こうすれば、他人に感謝されるだろう」と。
さらには、「やってあげるのだから、いつか、そのお返しをしてもらえるだろう」と。
心理学の世界でも、こういう心理的動作を、愛他的自己愛という。
自分をよく見せるために、他人を愛しているフリをしてみせることをいう。
しかしフリは、フリ。
中身がない。仏教の世界にも、末那識(まなしき)という言葉がある。
無意識下のエゴイズムをいう。わかりやすく言えば、偽善。
人間には、表に現われたエゴイズム(自分勝手)と、自分では意識しない、隠されたエゴイズムがある。
表に現れたエゴイズムは、わかりやすい。自分でも、それを意識することができる。
しかし、この自分では意識しない、隠されたエゴイズムは、そうでない。
その人の心を、裏から操る。
そういう隠されたエゴイズムを、末那識というが、仏教の世界では、この末那識を、強く
戒める。
で、日本では、「自己愛」というと、どこか「自分を大切にする人」と考えられがちである。しかしそれは誤解。自己愛は、軽蔑すべきものであって、決して、ほめたたえるべきものではない。
わかりやすく言えば、自己中心性が、極端なまでに肥大化した状態を、「自己愛」という。どこまでも自分勝手でわがまま。
「この世界は、私を中心にして回っている」と錯覚する。「大切なのは、私だけ。あとは、野となれ、山となれ」と。
その自己愛が基本にあって、自己愛者は、自分を飾るため、善人ぶることがある。繰りかえしになるが、それが愛他的自己愛。つまり、偽善。
こんな例がある。
●恩着せ
そのときその男性は、24歳。その日の食費にも、ことかくような貧しい生活をしていた。
その男性から、相談を受けたXさん(女性、40歳くらい)がいた。その男性と、たまたま知りあいだった、そこでXさんは、その男性を、ある陶芸家に紹介した。
町の中で、クラブ制の窯(かま)をもっていた。
教室を開いていた。その男性は、その陶芸家の助手として働くようになった。
が、それがその男性の登竜門になった。その男性は、思わぬ才能を発揮して、あれよ、あれよと思う間に、賞という賞を総なめにするようになった。20年後には、陶芸家として、全国に、名を知られるようになった。
その男性について、Xさんは、会う人ごとに、こう言っている。
「あの陶芸家は、私が育ててやった」「私が口をきいてやっていなければ、今でも、貧乏なままのはず」「私が才能をみつけてやった」と。
そして私にも、こう言った。
「恩知らずとは、ああいう人のことを言うのね。あれだけの金持ちになっても、私には1円もくれない。あいさつにもこない。盆暮れのつけ届けさえくれない」と。
わかるだろうか?
このXさんは、親切な人だった。そこでその男性を、知りあいの陶芸家に紹介した。
が、その親切は、ある意味で、計算されたものだった。
本当に親切であったから、Xさんは、その男性を、陶芸家に紹介したわけではなかった。それに一言、つけ加えるなら、その男性が、著名な陶芸家になったのは、あくまでもその男性自身の才能と努力によるものだった。
ここに末那識(まなしき)がある。
●愛他的自己愛
この末那識は、ちょっとしたことで、嫉妬、ねたみ、ひがみに変化しやすい。
Xさんが、「恩知らず」とその男性を、非難する背景には、それがある。そこで仏教の世界では、末那識つまり、自分の心の奥底に潜んで、人間を裏から操(あやつ)るエゴイズムを、問題にする。
心理学の世界では、愛他的自己愛というが、いろいろな特徴がある。ここに書いたのは、偽善者の特徴と言いかえてもよい。
(1)行動がどこか不自然で、ぎこちない。
(2)行動がおおげさで、演技ぽい。
(3)行動が、全体に、恩着せがましい。
(4)自分をよく見せようと、ことさら強調する。
(5)他人の目を、強く意識し、世間体を気にする。
(6)行動が、計算づく。損得計算をいつもしている。
(7)裏切られるとわかると(?)、逆襲しやすい。
(8)他人をねたみやすく、嫉妬しやすい。
(9)他人の不幸をことさら笑い、話の種にする。
こんな例もある。同じ介護指導員をしている、私の姉から聞いた話である。
●Yさんの仮面
Yさん(60歳、女性)は、老人介護の指導員として、近所の老人家庭を回っていた。介護士の資格はもっていなかったから、そのため、無料のボランティア活動である。
とくにひとり住まいの老人の家庭は、数日ごとに、見舞って、あれこれ世話を焼いていた。
もともと世話好きな人ということもあった。
やがてYさんは、町役場の担当の職員とも対等に話ができるほどまでの立場を、自分のものにした。
そして市から、介護指導員として、表彰状を受けるまでになった。
だからといって、Yさんが、偽善者というわけではない。
またYさんを、非難しているわけでもない。仮に偽善者であっても、そのYさんに助けられ、励まされた人は、多い。
またYさんのような親切は、心のかわいたこの社会では、一輪の花のように、美しく見える。
が、Yさんは、実は、そうした老人のために、指導員をしているのではなかった。
またそれを生きがいにしていたわけでもない。
Yさんは、「自分が、いい人間に思われることだけ」を考えながら、介護の指導員として活動していた。
みなから、「Yさんは、いい人だ」と言われるために、だ。Yさんにしてみれば、それほど、心地よい世界は、なかった。
しかしやがて、そのYさんの仮面が、はがれる日がやってきた。
Yさんが、実父の介護をするようになったのである。
実父は、元気な人だったが、脳梗塞(こうそく)を起こしてしまった。
トイレや風呂くらいは、何とか自分で行けたが、それ以外は、寝たきりに近い状態になってしまった。
年齢は、73歳(当時)。
最初は、Yさんは、このときとばかり、介護を始めたが、それが1か月もたたないうちに、今度は、実父を虐待するようになった。
風呂の中で、実父が、大便をもらしたのがきっかけだった。
Yさんは、激怒して、実父に、バスタブを自分で洗わせた。
実父に対する、執拗な虐待が始まったのは、それからのことだった。
食事を与えない。与えても、少量にする。
同じものしか与えない。初夏の汗ばむような日になりかけていたが、窓を、開けさせない。
風呂に入らせない。
実父が腹痛や、頭痛を訴えても、病院へ連れていかない、など。
こうした事実から、介護指導員として活動していたときの、Yさんは、いわば仮面をかぶっていたことがわかったという。
ケアマネの人は、こう言った。
「他人の世話をするのは、遊びでもできるけど、身内の世話となるいと、そうはいかないからね」と。
●子育ての世界でも
親子の間でも、偽善がはびこることがある。無条件の愛とか、無償の愛とかはいうが、しかしそこに打算が入ることは、少なくない。
よい例が、「産んでやった」「育ててやった」「言葉を教えてやった」という、あの言葉である。
昔風の、親意識の強い人ほど、この言葉をよく使う。
中には、子どもに、そのつど、恩を着せながら、その返礼を求めていく親がいる。
子どもを1人の人間としてみるのではなく、「モノ」あるいは、「財産」、さらには、「ペット」としてみる。
またさらには、「奴隷」のように考えている親さえいる。
息子(当時29歳)が、新築の家を購入したとき、その息子に向って、「親よりいい生活をするのは、許せない」「親の家を、建てなおすのが先だろ」と、怒った母親さえいた。
あるいは結婚して家を離れた娘(27歳)に、こう言った母親もいた。
「親を捨てて、好きな男と結婚して、それでもお前は幸せになれると思うのか」「死んでも墓の中から、お前を、のろい殺してやる」と。
そうでない親には、信じがたい話かもしれないが、事実である。
私たちは、ともすれば、「親だから、まさかそこまではしないだろう」という幻想をもちやすい。
しかしこうした(ダカラ論)ほど、あてにならないものはない。
親にもいろいろある。
もっとも、こうしたケースは、稀(まれ)。
しかしそれに近い、代償的過保護となると、「あの人も……」「この人も……」というほど、多い。
●代償的過保護
代償的過保護……。ふつう「過保護」というときは、その奥に、親の深い愛情がある。愛情が基盤にあって、親は、子どもを過保護にする。
しかし代償的過保護というときは、その愛情が希薄。あるいはそれがない。「子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしたい」という過保護を、代償的過保護という。
見た目には、過保護も、代償的過保護も、よく似ている。
しかし大きくちがう点は、代償的過保護では、親が子どもを、自分の不安や心配を解消する道具として、利用すること。
子どもが、自分の支配圏の外に出るのを、許さない。よくある例は、子どもの受験勉強に狂奔する母親たちである。
「子どものため」を口にしながら、その実、子どものことなど、ほとんど考えていない。人格さえ認めていないことが多い。
自分の果たせなかった夢や希望を、子どもに強要することもある。
世間的な見得、メンツにこだわることもある。
代償的過保護では、親が子どもの前に立つことはあっても、そのうしろにいるはずの、子どもの姿が見えてこない。
つまりこれも、広い意味での、末那識(まなしき)ということになる。
子どもに対する偽善といってもよい。
勉強をいやがる息子に、こう言った母親がいた。
「今は、わからないかもしれないけど、いつか、あなたは私に感謝する日がやってくるわよ。SS中学に合格すれば、いいのよ。お母さんは、あなたのために、勉強を強いているのよ。わかっているの?」と。
●教育の世界でも
教育の世界には、偽善が多い。
偽善だらけといってもよい。
教育システムそのものが、そうなっている。
その元凶は「受験競争」ということになるが、それはさておき、子どもの教育を、教育という原点から考えている親は、いったい、何%いるだろうか。
教師は、いったい、何%いるだろうか。
教育そのものが、受験によって得る欲得の、その追求の場になっている。
教育イコール、進学。
進学イコール、教育というわけである。
さらに私立中学や高校などにいたっては、「進学率」こそが、その学校の実績となっている。今でも夏目漱石の「坊ちゃん」の世界が、そのまま生きている。
数年前も、関東地方を中心にした、私立中高校の入学案内書を見たが、どれも例外なく、その進学率を誇っていた。
SS大学……5人
SA大学……12人
AA大学……24人、と。
中には、付録として、どこか遠慮がちに別紙に刷りこんでいる案内書もあったが、良心的であるから、そうしているのではない。
毎年、その別紙だけは、案内書とは分けて印刷しているために、そうなっている。
この傾向は、私が住む、地方都市のH市でも、同じ。
どの私立中高校も、進学のための特別クラスを編成して、親のニーズに答えようとしている。
で、さらにその元凶はいえば、日本にはびこる、職業による身分差別意識と、それに不公平感である。
それらについては、すでにたびたび書いてきたのでここでは省略するが、ともかくも、偽善だらけ。
つまりこうした教育のあり方も、仏教でいう、末那識(まなしき)のなせるわざと考えてよい。
●結論
私たちには、たしかに表の顔と、裏の顔がある。
文明という、つまりそれまでの人間が経験しなかった、社会的変化が、人間をして、そうさせたとも考えられる。
このことは、庭で遊ぶスズメたちを見ていると、わかる。
スズメたちの世界は、実に単純、わかりやすい。礼節も文化もない。
スズメたちは、「生命」まるだしの世界で、生きている。
それがよいとか、はたまた、私たちが営む文明生活が悪いとか、そういうことを言っているのではない。
私たち人間は、いつしか、自分の心の奥底に潜む本性を覆(おお)い隠しながら、他方で、(人間らしさ)を追求してきた。
偽善にせよ、愛他的自己愛にせよ、そして末那識にせよ、人間がそれをもつようになったのは、その結果とも言える。
そこで大切なことは、まず、そういう私たち人間に、気づくこと。
「私は私であるか」と問うてみるのもよい。
「私は本当に善人であるか」と問うてみるのもよい。あなたという親について言うなら、「本当に、子どものことを考え、子どものために教育を考えているか」と問うてみるのもよ
い。
こうした作業は、結局は、あなた自身のためでもある。あなたが、本当のあなたを知り、ついで、あなたが「私」を取りもどすためでもある。
さらにつけたせば、文明は、いつも善ばかりとはかぎらない。
悪もある。その悪が、ゴミのように、文明にまとわりついている。それを払いのけて生きるのも、文明人の心構えの一つということになる。
情報・画像の出展:はやし浩司先生
※このページの文章・及び画像の著作権は「はやし浩司」様が保有しています。
当サイトでは「はやし浩司」様のご厚意により許可を得て掲載させていただいております。
【はやし浩司先生のプロフィール】
1947年岐阜県生まれ。
金沢大学法文学部法学科卒業。
日豪経済員会給費留学生として、オーストラリアメルボン大学ロースクール(法学院)研究生、三井物産社員、幼稚園教師を経て、浜松市にてBW(ブレイン・ワーク)教室、幼児研究所を設立。
独自の哲学・教育論をもとに幼児教育の実践を行っています。
現在は教育評論家として、ホームページやブログ、メルマガ、ユーチューブ等を利用しながら執筆活動に専念しています。
●著書に「子育て最前線のあなたへ」(中日新聞社)、「おかしな時代のまともな子育て論」(リヨン社・2002年3月発行)、「ドラえもん野比家の子育て論」(創芸社)など、30冊余り。
うち4冊は中国語にも翻訳出版されています。
「まなぶくん幼児教室」(学研)、「ハローワールド」(創刊企画・学研)などの無数の市販教材も手がけ、東洋医学、宗教論の著書も計8冊出版されています。
●教育評論家、現在浜松市伝馬町でBW教室主催。
●現在は、インターネットを中心に活動中。
メルマガ・オブ・ザ・イヤー受賞(08)、
電子マガジン読者数・計3000人(09)、ほか。
「BW公開教室」を、HP上にて、公開中。
(HPへは、「はやし浩司」で検索、「最前線の子育て論byはやし浩司」より。)
過去の代表的な著書
・・・などなど30冊余り出版されています。