体罰問題

 

体罰について           

最近問題になっている体罰について

大阪市立桜宮高の男子バスケットボール部の主将が体罰の後に自殺したいうことと、ロンドン五輪代表を含む柔道女子選手15人らが、柔道日本女子代表の監督らから暴力を受けたということが最近大きな問題として各種メディアなどでも取り上げられています。

それぞれの分野のプロ・専門家の人達がこの一連の問題に対して様々な意見や見解を公表しています。

これは非常に難しい一面を持った問題ですが、当サイト管理人の個人的な意見では、体罰は容認できません。

元読売巨人軍の桑田真澄氏は、体罰を『絶対に仕返しをされないという上下関係の構図で起こるのが体罰』と言われており、体罰を容認していません。他にもスポーツ界で活躍されている一流の指導者の方々も、体罰を容認してないようです。


日本では昔から精神論・根性論が根強く残っていますので、『運動で頑張るのなら、少し殴られたくらいのことで弱音は吐くな。』とか、『俺(私)が学生だったころは、殴られたり蹴られたりは当たり前だった。そのおかげで俺(私)は強くなれたんだ。』というようなことを言われる指導者や親御様も多いのではないかと思います。


特に体育会系で育った人達の中では、根性を付けるためには体罰も必要と考える人達も少なくありません。

当サイト管理人も学生の頃は武道をやってきましたので、精神的な成長や忍耐力は非常に大切なものであると認識しています。しかし、体罰によって根性を叩きなおすことや、精神を鍛えるという考え方には少々誤りがあると考えています。


稀に特異体質(精神的なものも含む)のような人もいますので、全てを完全否定することはしませんが、スポーツや教育という現場において体罰は行うべきではないと思います。


スポーツでも教育でも、原点は人の心です。
指導者は人の心の成長を望むことを第一に考えるべきであり、心が躍動してこそ前に進む力となることを考えていく必要があると思います。

体罰は心の方向性・成長を湾曲させる可能性が非常に高い手段に該当し、誤った考え方であると思います。指導者は、選手・生徒の心が大樹にように大きく真っ直ぐに成長して欲しいと願う人であるべきです。健全な心の成長なしに本当の成長はありません。

良い指導者は選手や生徒の心を感じ取り、『自ら考える力』や『やる気』を引き出してくれます。

自分(指導者)の思い通りにしない(ならない)からといって暴力(言動も含む)を使い、選手や生徒を思い通りに動かそうとする行為は決して良い指導とは言えません。(心の成長には繋がりません。)
体罰によって強制的に相手の心を抑圧するようなやり方は、人の心を蔑ろにする非道徳な方法だと考えます。


ただ、体罰をする指導者の多くは、基本的に指導熱心であることも考慮するべき内容です。
権威主義で自分の求めているも(成績や実績など)のために体罰までする恥ずべき指導者もいるようですが、選手と本気で向き合い、体罰も選手達のために心底良かれと思ってやっている指導者も大勢います。
先ほども書いていますが、日本の精神論や根性論の中で育ち、実際にその体験を本当に良い経験として感じている指導者が多数いるのです。


体罰とは何を以って体罰とするのか。

体罰の線引きは非常に難しいことも考えなければいけません。
特にスポーツの世界では、個人個人の成長の度合いによる適した『厳しさ』も必要不可欠であり、指導者の方針(言動や行動も)と指導を受ける側の受け取り方に大きなズレが生じてしまう場合もあるので、判断が非常に難しくなります。
まして、オリンピックなどのレベルとなると精神的にも肉体的にもギリギリの戦いの中で勝たなければならないので、指導者からの厳しさのある後押しは必須でもあります。

オリンピックを目指すレベルの人達の精神力は、一般的に考えられる精神力のレベルとは比較にならないほど強いものですが、自分自身(選手)の気持ちや精神力だけではどうしても越える事ができない壁や難しい局面もあるはずです。その局面を打開するためには指導者の厳しさの力が必要です。


指導者の言動や行動に対する選手の受け取り方は、指導者と選手との間に確固とした信頼関係が築かれているかどうかが大きなポイントになると思います。

信頼関係がしっかり築けているのであれば、どんなに厳しい指導でも受け入れることができますが、信頼関係が希薄である場合は、些細なことでも大きな不満を持つことになります。

また、指導者と選手・生徒の間には、信頼関係とともに上下関係も必要です。
『なあなあ』の関係では教育や指導の効果は薄くなりますので、時には意図的に一喝を入れたりしてビシッとした空気を作っていくことは指導者として必要なことでもあります。

柔道のような格闘技型のスポーツでは、試合前に「ビンタ」によって喝を入れることもあります。集中力を高めたり、緊張を和らげる、または頭の中がシャープになるといった良い効果(個人差があります)もあるようですが、これも指導者と選手との信頼関係がない場合は、線引きが難しくなりそうです。

選手や生徒が指導者と対峙した時に萎縮してしまうのであれば、威圧的な行為や恐れをいだかせる行為が日常的に行われている可能性があります。その場合、選手や生徒の表情は曇り、目の輝きは消えます。
選手や生徒との信頼関係を築かず、恐怖や威圧によった強制的な指導方法は世界のスポーツ界・教育界から見ても常識外れ・時代遅れと見られてしまうでしょう。


正直、体罰は実際にその現場を見てみないと分かりません。もしかすると管理人レベルでは実際に現場を見ても判断ができないかもしれません。


指導のさじ加減や指導を受ける側の感じ方一つで、熱意のある良い指導者となったり、体罰をする指導者と呼ばれたりしてしまいます。体罰・体罰となんでも一括りにしてしまうと、多くの優秀な指導者の可能性をも奪いかねない、本当に難しい問題です。。


ただ、これだけは言えます。

心に光を灯すのが指導であり、教育です。
心に闇(病み)を作るのは指導や教育とは言えません。



心に闇(病み)を作る体罰を容認することはできません。



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