適切な幼児教育は後の人間形成において大変重要であると考えていますが注意していただきたいことがあります。
幼児教育は完璧な育児や教育を推奨するものではないということです。
・愛情が第一を忘れない
・他の子どもと比較をしない
・完璧主義にならない
・結果を期待しすぎない
・ゆったりとした心を持つ
子どもへの過剰な期待は親子共に大きなストレスになる危険性あります。
ゆったりと構え、少しくらい上手くいかなくても「まぁ、いっか。」に考えられることが幼児教育を続けられるポイントになります。
「絶望論」について はやし浩司先生の子育て随筆
巨大な隕石が地球に向かっている。もしそれが地球と衝突すれば、地球そのものが、破壊されるかもしれない。もちろん地球上の、あらゆる生物は死滅する。
SF映画によく取りあげられるテーマだが、もしそういうことになったら……。人々は、足元をすくわれるような絶望感を味わうに違いない。自分が何であるかさえわからない絶望感と言ってもよい。
だれと話しても、何を食べても、また何をしても、自分がどこにいるかさえわからない。そんな絶望感だが、しかしこうした絶望感は、隕石が地球に衝突するという大げさな話は別として、つまり大小さまざまな形で、人を襲う。
そしてそのつど人々は何らかの形で、日々に、その絶望感を味わう。
仕事がうまく、いかないとき。人間関係が、つまずいたとき。大きな病気になったとき。
社会情勢や、経済情勢が不安定になったとき。国際問題が、こじれたとき、など。人間には、希望もあるが、同時に絶望もある。
しかしこの二つは、対等ではない。希望からは絶望は生まれないが、希望は、絶望の中から生まれる。
人々はそのつど、絶望しながら、その中から懸命に希望を見出そうとする。そしてそれが、そのまま生きる原動力となっていく。
SF映画の世界では、たいてい何人かの英雄が現れて、その隕石と戦う。ロケットに乗って、宇宙へ飛び出す。観客をハラハラさせながら、隕石を爆破する。衝突から軌道をはずす。そしてハッピーエンド。
が、現実の世界では、こうはいかない。大きくても、小さくても、絶望は絶望のまま。
ハッピーエンドで終わることなど、十に一つもない。たいていは何とかしようともがけばもがくほど、そのままつぎの絶望の中へと落ちていく。そしてそのたびに、身のまわりから小さな希望を見出し、それにしがみついていく……。
何とも暗い話になってしまったが、そこでハタと、人々は気づく。絶望を、絶望と思うから、絶望は絶望になる。
しかし最初から、「望み」がなければ、絶望など、ない。
つまり、「今」をそのまま受け入れて生きていけば、絶望など、ないことになる、と。わかりやすく言えば、そのつど、「まあ、こんなもの」と、受け入れて生きていえば、絶望することはない。
仕事がうまくいかなくても、結構。人間関係が、つまずいても、結構。大きな病気になっても、結構。社会情勢や、経済情勢が不安定になっても、結構。国際問題が、こじれても、これまた結構、と。
少し無責任な生き方になるかもしれないが、こうした楽天的な、とらえ方をすれば、絶望は絶望でなくなってしまう。ということは、絶望は、まさに人間自らがつくりだした、虚妄(きょもう)ということになる。
いや、こう書くと、「林め、何を偉そうに!」と思う人がいるかもしれないが、「絶望は虚妄である」と言ったのは、私ではない。あの魯迅(一八八一〜一九三六・中国の作家、評論家)である。彼は、こんな言葉を残している。
『絶望が虚妄なることは、まさに希望と同じ』(「野草」)
「希望も、そして絶望も、人間が自ら生み出した幻想、つまり虚妄である。希望が虚妄であるのと同じように、絶望もまた虚妄にすぎない」と。
が、そうは言っても、究極の絶望は、いうまでもなく、「死」である。この死だけは、そのまま受け入れることはむずかしい。死の恐怖から生まれる絶望も、また虚妄と言えるのか。あるいは死にまつわる絶望からも、希望は生まれるのか。実のところ、これについては、私はまだよくわからない。が、こんなことはあった。
昔、私の友人だった、N君は、こう言った。「林君、死ぬことだって、希望だよ。死ねば楽になれると思うのは、立派な希望だよ」と。私が彼に、「人間は希望をなくしたら、つまり、絶望したら、死ぬのだろうね」と言ったときのことだ。しかしもし、絶望が虚妄であるとするなら、「死ねば楽になれるという希望」もまた、虚妄ということになる。つまり「死に向かう希望」など、ありえない。
もっとわかりやすく言えば、「死ぬことは、決して希望ではない」ということになる。この点からも、N君の言ったことは、まちがっているということになる……? もう一度、この問題は、頭を冷やして、別のところで考えてみたい。
一年後に……
上の原稿を書いてから、ちょうど一年になる。改めて、自分の書いた「絶望論」を読みなおしてみる。
その前に、「絶望」とは、何かという問題がある。
がっかりしたり、落胆することは、絶望ではない。似ているが、絶望ではない。ただ異質のものかというと、そうでもない。『落胆は、絶望の母』と言った、キーツ(「希望について」・イギリスの詩人)がいる。『失敗は、成功の母』をもじった言葉である。
改めて考えてみるきっかけとなったのは、子どもの受験で失敗して、落ちこんでしまったという母親からの電話である。
世間の人は、「たかがそれくらいのことで……」と思うかもしれないが、その母親にとっては、そうではない。子どもの受験に、生涯のすべてをかける。そしてその結果をみて、子どもの情来のすべてを判断をする。
どんな母親にとって、子どもの将来は、最高に輝くものでなければならない。ふつうの未来、平凡な未来というのは、母親にとっては、敗北でしかない。そのため、子どもが受験に失敗したとき、母親は、強い敗北感を味わう。そしてそれが絶望感へと変る。
二〇年ほど前だが、息子(中三)が、高校受験に失敗したとき、自殺を試みた母親がいた。一度目は、未遂で終わったが、そのあと、一か月ほどしてから、今度は別の方法で、本当に自殺してしまった。
ただその母親のばあい、いろいろな薬ものんでいたし、ほかにもいくつかの問題があった。また一度目の自殺のときは、交通事故として片づけられた。二度目の自殺のときは、……(この話は、ここには書けない)……ということで、片づけられた。
だから子どもの受験が、直接自殺に結びついたとは考えにくいが、大きな引き金になったことは事実である。私はその母親から、たびたび相談を受ける立場にあった。
しかし希望にせよ、絶望にせよ、それはその人間が、勝手につくりだした虚妄であることには、ちがいない。
つぎに書いたのが、「希望論」。先の「絶望論」と同じころ、書いた。
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【はやし浩司先生のプロフィール】
1947年岐阜県生まれ。
金沢大学法文学部法学科卒業。
日豪経済員会給費留学生として、オーストラリアメルボン大学ロースクール(法学院)研究生、三井物産社員、幼稚園教師を経て、浜松市にてBW(ブレイン・ワーク)教室、幼児研究所を設立。
独自の哲学・教育論をもとに幼児教育の実践を行っています。
現在は教育評論家として、ホームページやブログ、メルマガ、ユーチューブ等を利用しながら執筆活動に専念しています。
●著書に「子育て最前線のあなたへ」(中日新聞社)、「おかしな時代のまともな子育て論」(リヨン社・2002年3月発行)、「ドラえもん野比家の子育て論」(創芸社)など、30冊余り。
うち4冊は中国語にも翻訳出版されています。
「まなぶくん幼児教室」(学研)、「ハローワールド」(創刊企画・学研)などの無数の市販教材も手がけ、東洋医学、宗教論の著書も計8冊出版されています。
●教育評論家、現在浜松市伝馬町でBW教室主催。
●現在は、インターネットを中心に活動中。
メルマガ・オブ・ザ・イヤー受賞(08)、
電子マガジン読者数・計3000人(09)、ほか。
「BW公開教室」を、HP上にて、公開中。
(HPへは、「はやし浩司」で検索、「最前線の子育て論byはやし浩司」より。)
過去の代表的な著書
・・・などなど30冊余り出版されています。